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生産者さん巡りの春
隣の空き地ではうぐいすが鳴き、玄関先では自生したチューリップと水仙が咲き乱れ、庭ではつくしが顔を出し、かえるが遊びにやってきます。そして、通称「ママの畑」にもかわいい芽が出てきました。しっかり春です!
東京で暮らしていた頃も草花や虫たちから春を感じていましたが、自然の量が東京と山梨では圧倒的に違うからでしょうか。春の訪れを生き物たちから教えてもらっていることを日々強く実感します。
この寒い冬の間に、いくつもいくつも物件や土地を見てきて、土地勘もずいぶんついてきました。金額も広さもつくりも素晴らしいのだけど、秘境すぎる場所にある古民家、気に入って不動産会社さんと進めていたら途中で、オーナーの老夫妻がやっぱり売るのはもう少し先にすると話がオジャンになってしまった物件、内覧したら「ここでお店をやったら一家離散になる!」と普段見えるタイプではない私が、なんか見えてしまった物件などなど、実はいろいろと経験していました。
そして、やっと「これは!」と思う物件に出合い、現在、交渉を進める一方で、山梨県内の野菜やお米、お肉などの生産者さんや、器などの作家さん巡りを始めています。
そんな最中、熊本・大分を中心とした震災が発生しました。日々のこどもたちの言動に笑い転げながらも、時折、九州のことが心をよぎり、ふいに心が締め付けられて涙ぐむ。そんなどうにも表現しづらいもどかしさを毎日感じています。被害に遭われた方やそのご家族の皆さまにはお悔やみとお見舞いを申し上げます。
「逃げるは悪」という呪縛
話は20代のころにさかのぼります。
早めに仕事を終わらせた金曜日の夜、数名で飲みに行くことになり、私は先輩の男性と先にふたりでタクシーに乗って現地に向かっていました。
その車中、井上陽水の『傘がない』がラジオから流れてきました。思わず静かに聞き入ってしまい、その聞き入って静かになっている車中の空間を茶化すように「死にたくなりますね~(笑)」などと私が笑って言った瞬間、先輩が「逃げちゃおうか?」と言いました。
逃げる!? 私はそれまでの人生で使ったことのない言葉に不意打ちに出合ってしまって、「あ、いや、私の人生に逃げるとかそういう選択は、あり得ないことだと思うんです!」とかなんとか、今なら「マジメか!」とツッコまれそうなほど大真面目に応えてしまって、先輩に大笑いされたことをいまだに時折思い出します。
5年前の3.11の時もそうでした。
福島原発の事故が起きたことで、これはちょっと東京から離れたほうがいいだろうと。夫も「少し名古屋の実家に避難したほうがいいのではないか」と言ってくれたのですが、それは夫は仕事で東京に残り、私と長男のふたりだけで一時避難するという意味でした。私は「それだったら、絶対にいや!」と頑なだったことをよく覚えています。
たとえば東京で、たとえば名古屋で、避難している間に連鎖して大きな地震が起きたとしたら……。被爆することよりも、家族が離れ離れになってしまうことのほうが私には恐ろしく感じましたし、何しろ「あなた、逃げるの?」と私のなかのもうひとりの私が何度も聞いてきました。そのたびに、かつてのタクシーでの光景が何度もフラッシュバックしました。20代のころの大真面目さのまま、逃げることは美徳ではない、という意味のわからない執着がしっかりと心に根付いていたのでした。
安全と断言できる場所など地球上どこにもない
それから5年間、友人に「あの時は遠い実家に避難した」と聞いたり、3.11を機に、福岡・糸島や岡山、高知などに移住したご家族などの情報を目にするたびに、私はなぜこの時、東京に留まるという判断をしたのだろうか?とよく考えました。
けっして自分の判断を後悔しているわけではありません。だけど……。「逃げる行為は悪」という日本文化的な刷り込みが自分をしばり付け、暮らしている地から離れることへの抵抗感を持っている自分の気持ちにしっかり気づきました。
時折、3.11を機に移住されたさまざまなご家族のエピソードに触れると、なぜそんな自由な心で暮らす場所を家族で移すことができたのだろう?と、その選択に対して尊敬に似た思いになりました。
この5年間は言ってみれば「逃げる行為は悪」という呪縛から少しずつ自分を解き放してあげる時間、逃げるという行為を静かに少しずつ受容していく時間だったともいえるのです。
山梨に移住を決めた時も、本当に多くの方から「なぜ?」と聞かれました。こどもたちのこと、働き方、生き方いろんなことを考えて、ここ山梨北杜市にやってきたけれど、理由の2%くらいは東京からやっと逃げるという判断ができた、というのもぶっちゃけあるのです(夫はそうは考えていないかもしれませんが)。
やはり5年経った今でも福島原発からは放射能が漏れ続けていて、東京にはたくさんの放射能ホットスポットがまだまだある。そういった環境からこどもたちを少しでも遠ざけたかったというのはあるのです。
そうは言っても、山梨でもきのこ類は基準値を超えるセシウムが検出されていますし、ましてや日本は地震大国であり、原発保有国。じゃあ、海外なら安全なのかと言われても、どこなら安全だといえる保証などどこにもない。であるならばこそ、どこで暮らすにしても、そこから移動することもいとわない覚悟、もしかしたらそれが「生きる」ということなのかもしれません。
5年間で「逃げる」を受容してきた私たち
今回の震災では、SNSを見ていても、被災地からいったん別の地域へ避難することを推奨する投稿、長く暮らした場所から逃げることに後ろめたさを感じないでほしい、といった投稿がよく見受けられます。東日本大震災の時に別地域に避難されて移住された方からの「こちらにいらっしゃいませんか?」といった呼びかけも見ます。
それらを見ていて、私だけでなく、この5年間で多くの方がそれぞれの場所で「逃げる行為は悪」という刷り込みと戦い、静かに少しずつ受容してきたのだなということが本当によくわかりました。
避難所から離れて、別の場所へ避難することは、自分たちの分の支援物資を隣人に譲ることができるということ。そこから離れることは、そこから逃げるということは、ともに暮らした人々をけっして見捨てることでもなく、カッコ悪いことでもなんでもなく、そこに残った人を助けることにつながる。
ですから、今回の震災で暮らした土地から離れる判断をした方をどうぞ責めないでください。そして、離れる判断をされた方はどうぞご自身を責めないでください。何事も生きてこそ。留まるという判断も、離れるという判断も、生きるために自分が最良と判断したものは、後に後悔したとしても、すべて英断です。
私たちはここ北杜市に新しい拠点をつくろうと企てている最中なので、土地や建物といった新たに抱えるものができます。それでも、いざという時に手放す覚悟と、「家族が一緒なら、どこだっていい!」という当たり前の感性はしっかり常備しておきたいと思います。
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石田 恵海(いしだ えみ)
1974年生まれ。ビオフレンチレストランオーナー&編集ライター
「雇われない生き方」などを主なテーマに取材・執筆を続けてきたが、シェフを生業とする人と結婚したおかげで、2011年に東京・三軒茶屋で「Restaurant愛と胃袋」を開業。子連れでも楽しめる珍しいフレンチレストランだと多くの方に愛されるも、家族での働き方・生き方を見直して、2015年9月に閉店し、山梨県北杜市へ移住。2017年4月に八ヶ岳ガストロノミーレストラン「Terroir愛と胃袋」を開業した。7歳と6歳と1歳の3男児のかあちゃんとしても奮闘中!
Restaurant 愛と胃袋
第1回:ハロー!新天地
第2回:熊肉をかみしめながら考えたこと
第3回:エネルギーぐるり
第4回:「もっともっとしたい!」を耕す
第5回:「逃げる」を受容するということ
第6回:生産者巡礼と涅槃(ねはん)修行
第7回:「ファミ農」、はじめました。
第8回:東京から遠い山梨、山梨から近い東京
第9回:土と水と植物と身体と
第10回:自立と成長のこどもたちの夏
第11回:自分らしくあれる大地
第12回(前編):今年は引越・入学・転園・開業・出産!
第12回(後編):今年は引越・入学・転園・開業・出産!
第13回: 素晴らしき八ヶ岳店スタート&出産カウントダウン!
第14回:出産から分断を包み込む
第15回:味噌で、映画で、交わる古民家
第16回:夫、妄想殺人事件!
つくるめぐみ代表
得意なテーマは自ら実践する「田舎暮らし」「女性の起業」「自由教育」。八ヶ岳ガストロノミーレストラン「Terroir愛と胃袋」女将であり、「自分らしい生き方」などをテーマとした編集・ライターでもあり、三兄弟の母でもあり、こどもたちをオルタナティブスクールに通わせている。「誰もが、オシャレしてメシ食って恋して仕事して、最期まで自分を生きられる、自立した社会づくりに貢献すること」を理念に活動。2020年より古民家一棟貸しの宿、棚田を愛でながらコーヒーを楽しむカフェ・ギャラリーも開業する。
→ Terroir 愛と胃袋