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奇跡みたいな、つながりづくり【たがやすメンバーコラムvol.2】

福留 千晴 │ 2024.07.23

こんにちは。たがやす理事の福留千晴です。
たがやすnoteでは、メンバーが毎月記事を担当して、目指すものや活動内容について発信していきます!第二回(7月)の投稿は、福留です。どうぞよろしくお願いいたします。

今回は、私が東京にいながらも鹿児島県大隅半島で活動するNPO法人たがやすに入ることになったきっかけや、活動内容、日々思い描いていることなどについて書きたいと思います。

私の原風景をつくってくれた大隅半島

私は元々、薩摩出身の母、大隅出身の父のハーフ(笑)、鹿児島市内で生まれました。その後、父が転勤族だったため、沖縄・福岡などを転々とし、3歳の頃から埼玉で育ちました。が、夏休みには大隅半島の祖父母の家を訪れ、それはまぁ豊かな幼少時代を過ごしました。
祖父は牛や豚や鶏を飼っていて、畑や稲作もしていて、典型的な鹿児島の百姓。夏の朝、起きると鶏小屋へ行き、まだ鶏が温めている生みたての卵で、卵かけごはん。ばあちゃんがよく来たねぇ、とご馳走の唐揚げを作ってくれた日、台所には鶏の足があり、全てがつながったこと(これぞ食育)。夜になると大人たちが楽しそうに地元の焼酎「小鹿」を飲んで集まっていたこと。今も目を瞑ると、じいちゃんのトラクターの音や、牛や鶏の声、そんなものが聴こえてくるようで、ずいぶん贅沢な幼少時代を過ごしました。

私が生まれる前、にぎやかな実家の風景(約45年前)

ひとりでは解決が難しい時代に

そこから色々と、それは本当に色々とありました。
2021年に父が脳梗塞になり、さまざまな手続きや面倒を見られるのが私しかいないなか、当時はコロナ禍で行動も制限されていて、息子がまだ2歳で自由な移動が難しい。父の手続き等で鹿児島へしばらく滞在する場合、仕事も育児も全部抱えて飛ばなければならず、実家が風呂・トイレなし(ボットン)という、2歳の息子と滞在が難しい状況だったので、内心「もはやここまでか・・」と途方に暮れていたそんな時。
そのちょうど1ヶ月前にmazecoze研究所の編集長・平原礼奈さんとともに、オンライン取材で出会ったのが鹿児島県錦江町で活躍する、そしてこれからまさにNPO法人を立ち上げようとしていたたがやすのみんなでした。

私の人生を変えることになったオンライン取材(記事リンクはこちらから)

その取材時、錦江町ではワーケーション施策として、県外の方々を受け入れられる拠点があること。それを鹿児島出身でかつすぐに移住が難しい私でも活用できること、などを聞いていたのでした。

取材時は「コロナが落ち着いたら行きますね〜!」なんて話していたまさにその1ヶ月後、本当に行くことになるとは。この辺りからもう、私は自分の意思とは関係なく、何かに導かれているような気がしています。

はじめてたがやすメンバーとリアル対面で酒を交わした日

そこから錦江町では、何度か父の介護のための滞在や、父が無事退院してからも、父と息子と3人で最後に過ごした思い出深い日々を過ごすことになりました。

私の実家付近の山深い内陸部とは違って(山も大好きだけれど)、錦江町は海に面していて、歩いて1分で海に行くことができ、対岸の開門岳(通称"薩摩富士")を一望できるその美しい風景や、歴史風土が形成してきた町の人たちのオープンで温かい人柄、そして「またいつでもおいで〜!なんなら移住して!笑」と言ってくれるたがやすメンバーのおかげで、いま振り返ると割とつらい日々だったにも関わらず、明るく前向きに過ごすことができたように思う。

錦江町の拠点から歩いて1分の風景

そして夜、温かい布団で眠る時、こう思ったのでした。

これまで個人や家族単位で解決してきたことが、これからますます難しい時代になる。そんな時、地域が一緒になって課題解決は難しくても、乗り越えていくことはできるのかも

その思いは、いまも全く変わることなく、その後、父が亡くなったり、多くの土地と空き家を"本家末裔ひとり娘"として遠隔継承した後にも、思い続けていることです。

もうひとつ、父が亡くなってしまった時、私の原風景と、いまの自分の生き方をかたちづくってくれた、大切な場所との関係も「もうこれでいよいよ終わってしまうのか」という寂しさがあったのですが、これもまた、たがやすのみんなのおかげで、つながり続けることができるようで、とてもうれしく思ったのです。

外から風を吹かせ、かき混ぜ続けること

鹿児島出身とはいえ、現在私は東京に住んでいて、子育てもしていて、どうやって鹿児島のNPO法人に参画しているの?とよく聞かれることがあります。どんな思いで現在、たがやすに参画して、どんな活動内容をしているか、少し書きたいと思います。

まず私が意識しているのは、「外から風を吹かせること」。
年に数回、鹿児島へ帰るなかで、誰かに大隅半島を紹介したり、実際に国内外から連れて行ったり。また私の専門が広報・ブランディング・戦略立案だったりするので、「勝手に大隅観光大使」のような気持ちで、中にいてはできないことで、たがやすのみんなや大隅の人たちの役に立てたら良いなぁということを実践しています。
実際に、たがやす事業で関わっていただくクリエイターの方々は多様で、福井県小浜市のクリエイティブ・ユニット「UMIHICO」さんや、宮崎県出身のクリエイティブ・ディレクター田中淳一さん、長野県佐久市の「Sanson Terrace」さんなど、ここではご紹介しきれませんが、行政区分を超えて地域の課題意識を共有できる方々ともご一緒しています。(いつもありがとうございます🙏)
そして、常に立ち止まるのは「それって自分のエゴじゃない?」という視点。私は良かれと思っていても、地域の人やたがやすが望んでいなければそれは意味がないと思うので、同時に冷静さもとても必要です。出身者だけれど、県外居住者。というのは、その冷静と情熱のバランス感(笑)を担うのにはちょうど良いのかもしれません。(とはいえ情熱多めですが笑)

たがやすの素敵なロゴ by UMIHICOさん(福井県小浜市)

そして次に、「かき混ぜること」。

これはもう、課題が360°の地域だからこそ、待ったなしでかき混ぜながらやっていかないと間に合わないし、逆にいうとそういう地域だからこそかき混ぜられる余白があり、新しい価値が生まれる可能性があるとも思います。

昨年は、観光庁インバウンド事業でフランスの有識者をお呼びし、ノウフク連携を起点とした新たなモニターツアーを行ったり、果てしない課題が山積みの空き家に対して新たな事業「THEDDO./スッド」を立ち上げたりしました。

いずれも、経済・観光・福祉・文化交流など多様な視点を組み合わせて、地域の人たちだけでは解決が難しい課題に、できるだけ多様な方々を巻き込んで新たな価値を起こしていくというもの。課題に対して対症療法的に対応していたのではもう時間が足りないので、何ステップも飛び越えて、新しい価値をつくり発信していくことが必要だなぁと感じています。

フランス有識者とのモニターツアーにて
実家の空き家で、ワークショップ参加の皆さんと

みんな心残りがあるから、行動に移していける

代表理事のみなみちゃんが常に言っていることで、「たがやすは事業ありきではなく、人ありきで集まった団体です」という言葉があります。

これはちょっと、たがやすを知らない方々にはわかりづらいと思うのですが、本当にそうで、理事のバックグラウンドは教員・神職・アーティスト・自治体職員・メーカー・旅行代理店・広告代理店など本当にさまざまで、あと足りないのは弁護士と医者かなと冗談でよく話しているほど(笑)だからこそ既存の枠を超えた新しい価値や事業が興り続けているし、同時に対外的な発信などはいつも悩んでいて、うまく伝えられないのですが、でもそれでも良いのかなと。

鹿児島・福岡・鳥取・東京など居住地もさまざまで、全員集まれるのは数年に一度

たぶんたがやす10人の、それぞれにとっての「たがやすとは」という説明は全部バラバラで、表現も違うと思うのですが、同じ根っこを共有し、同じビジョンを描いている。そしてみんなに共通しているのは、何かしら社会や地域に対して思うことや心残りがあって、それを変えていくために行動に移しているということ。その時にひとりではなく、できるだけみんなで一緒にできたらより新しい価値をつくっていけるよねっていう、そんな団体です。だから売上目標もなければ、関与度もそれぞれ自分で決める。

私自身、これまで携わってきたどんな企業・団体とも違って、時代に即していて柔軟で面白いし、未来が楽しみな団体でもあります。たがやす自体がひとつの小さな地域社会・コミュニティになりつつあるし、これからも地域社会に還元しながら新しい価値を発信し続けていけると良いのかな、と願っています。

たがやすnote

(文・画像提供 福留千晴)

研究員プロフィール:福留 千晴

鹿児島県出身。”地域と食のしごと”NORTHERN LIGHTS代表。
広告会社勤務を経て、2015年より地域に根ざした活動を展開。 日本各地の自治体・事業者の国内外マーケティング戦略設計や新商品企画開発、 共創型プロジェクト企画運営など、独立系プロデューサーとして地域と食のブランディング&PRを展開中。日本デザイナー学院講師。 現在は大隅半島にて空き家課題解決に挑戦中。お酒好きが高じて、焼酎利酒師。
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